名著であるため、ご紹介
『田中清玄自伝』大須賀瑞夫著 文芸春秋社
これはまだ田中氏が存命中に二年にわたるインタビューに基づいて出版されたもので、何度か読み返しています。
笹川良一氏とは全く出自も立場も異なるが、戦後の日本を牽引したフィクサーの一人であることは間違いない。この人の人生は、それ自体が壮大なドラマであり、桁外れにスケールが大きく、昭和の裏面史そのものだ。
おおまかな経歴をたどっただけでも、驚きを禁じ得ない。
1927年に東大入学、マルキシズムに傾倒し、非合法時代の共産党で活動を始める。1930年には書記長として武装闘争を指揮、警官隊と銃撃戦などを演じ、治安維持法違反で逮捕、投獄される。その間に会津藩筆頭家老の家系だった母親が息子の不義を諌めるとして割腹自殺。小菅刑務所での獄中生活は11年に及び、1933年共産党からの転向を宣言、活動家時代の同志で宮津刑務所に服役していた女性と獄中結婚。1941年に恩赦で出獄し禅寺で修行を始める。戦後神中組(後の三幸建設)を起こし、戦災復興に尽力。1945年天皇陛下に拝謁。1955年タイに渡り石油発電所の開発にかかわる。60年安保の際は全学連(反日共系)に資金援助をしたことがスキャンダルになる。1963年三代目山口組、田岡一雄らと麻薬撲滅運動開始。同年対立する勢力に銃撃され瀕死の重傷を負う。1967年アブダビ国王と会見、以降アラブ諸国を歴訪し要人と会見、国際的な石油商として活躍する。1973年田中角栄首相に同行し訪欧。1974年イギリスの保健機構ロイズの会員(出資者)となる。1980年訪中しト小平と会見、以後度々訪中。同年インドネシアのスハルト大統領と会見。1991年ハプスブルグ家当主オットー大公とともに宮沢首相と会見。
波瀾万丈とはこの人の為にある様な言葉である。
この人と関わりのあった各界の要人を挙げるだけでも大変な数になり、多くの国にまたがっている。たくさんの友人がおり、同時にたくさんの敵がいるのだ。
昔、田原総一郎と対談しているのをTVで見たが、古武士のような雰囲気、べらんめえ調で言いたい放題のことをズケズケと言っていた。
激烈な反共ナショナリストであるが、多くの保守政治家、右翼とも激しく対立し、戦前の軍部への批判から首相の靖国参拝にも反対している。
古巣の共産党はもちろん、多くのジャーナリストから「転向右翼」「石油利権屋」「CIAの手先」などとして徹底的に貶められ、ネガティブな印象をもっている人も多いに違いない。
しかし主義主張はともあれ、こんな破天荒でダイナミックな人生を送った人物はそうそういまい。
1993年に死去。
これはまだ田中氏が存命中に二年にわたるインタビューに基づいて出版されたもので、何度か読み返しています。
笹川良一氏とは全く出自も立場も異なるが、戦後の日本を牽引したフィクサーの一人であることは間違いない。この人の人生は、それ自体が壮大なドラマであり、桁外れにスケールが大きく、昭和の裏面史そのものだ。
おおまかな経歴をたどっただけでも、驚きを禁じ得ない。
1927年に東大入学、マルキシズムに傾倒し、非合法時代の共産党で活動を始める。1930年には書記長として武装闘争を指揮、警官隊と銃撃戦などを演じ、治安維持法違反で逮捕、投獄される。その間に会津藩筆頭家老の家系だった母親が息子の不義を諌めるとして割腹自殺。小菅刑務所での獄中生活は11年に及び、1933年共産党からの転向を宣言、活動家時代の同志で宮津刑務所に服役していた女性と獄中結婚。1941年に恩赦で出獄し禅寺で修行を始める。戦後神中組(後の三幸建設)を起こし、戦災復興に尽力。1945年天皇陛下に拝謁。1955年タイに渡り石油発電所の開発にかかわる。60年安保の際は全学連(反日共系)に資金援助をしたことがスキャンダルになる。1963年三代目山口組、田岡一雄らと麻薬撲滅運動開始。同年対立する勢力に銃撃され瀕死の重傷を負う。1967年アブダビ国王と会見、以降アラブ諸国を歴訪し要人と会見、国際的な石油商として活躍する。1973年田中角栄首相に同行し訪欧。1974年イギリスの保健機構ロイズの会員(出資者)となる。1980年訪中しト小平と会見、以後度々訪中。同年インドネシアのスハルト大統領と会見。1991年ハプスブルグ家当主オットー大公とともに宮沢首相と会見。
波瀾万丈とはこの人の為にある様な言葉である。
この人と関わりのあった各界の要人を挙げるだけでも大変な数になり、多くの国にまたがっている。たくさんの友人がおり、同時にたくさんの敵がいるのだ。
昔、田原総一郎と対談しているのをTVで見たが、古武士のような雰囲気、べらんめえ調で言いたい放題のことをズケズケと言っていた。
激烈な反共ナショナリストであるが、多くの保守政治家、右翼とも激しく対立し、戦前の軍部への批判から首相の靖国参拝にも反対している。
古巣の共産党はもちろん、多くのジャーナリストから「転向右翼」「石油利権屋」「CIAの手先」などとして徹底的に貶められ、ネガティブな印象をもっている人も多いに違いない。
しかし主義主張はともあれ、こんな破天荒でダイナミックな人生を送った人物はそうそういまい。
1993年に死去。