軍歴調査(その弐)
祖父の軍歴について問い合わせた愛知県庁の県民生活部から連絡をもらったが、残念ながら該当する記録は見当たらないということだった。
複数の資料をあたってくれたようだが確認出来なかったということで、終戦直後(昭和二十年八月十八日)に発令された「帝国陸軍復員要領細則」というのに基づいて焼却処分されたらしい。
残念なことである。
結局公的な記録は何も入手出来なかったが、担当の女性はこちらが恐縮するぐらい申し訳なさそうな口調で、役所とは思えないような丁寧な対応であった。
祖父は防忘録によれば、大正八年と昭和三年の二度に渡って応召したのははっきりしているが、軍内でのことは大雑把にしか記載されておらず、何時、何処にいたかというのが今一つはっきりしない。軍隊手帳が残っていればいいのだが、それは紛失してしまっている。大東亜戦争終戦前には除隊しており、家業だった燃料商に戻り、当時配給物資で自由に販売出来なかった石炭の配給所長(常滑町大野)に就いたようだ。
私が小学生の時に他界しているし、父もずいぶん前に亡くなっているので、もう直接話を聞けるような相手はいなくなっている。
複数の資料をあたってくれたようだが確認出来なかったということで、終戦直後(昭和二十年八月十八日)に発令された「帝国陸軍復員要領細則」というのに基づいて焼却処分されたらしい。
残念なことである。
結局公的な記録は何も入手出来なかったが、担当の女性はこちらが恐縮するぐらい申し訳なさそうな口調で、役所とは思えないような丁寧な対応であった。
祖父は防忘録によれば、大正八年と昭和三年の二度に渡って応召したのははっきりしているが、軍内でのことは大雑把にしか記載されておらず、何時、何処にいたかというのが今一つはっきりしない。軍隊手帳が残っていればいいのだが、それは紛失してしまっている。大東亜戦争終戦前には除隊しており、家業だった燃料商に戻り、当時配給物資で自由に販売出来なかった石炭の配給所長(常滑町大野)に就いたようだ。
私が小学生の時に他界しているし、父もずいぶん前に亡くなっているので、もう直接話を聞けるような相手はいなくなっている。